2015.03.20 Friday
風景の否定神学――大友真志の写真を北海道立近代美術館でみて。
北海道立近代美術館での写真展のハイライトの一つが、大友真志写真だ。
三部で構成されている。
セルフポートレート、家族の室内での肖像写真、南大東島の風景写真である。
この写真展が開催されるにあたり、批評家の平倉圭が、
「大友真志さんの写真は本当に凄い。どう凄いのかが私には説明できなくて、大切さの領域が微妙で、言語を絶している感じがする。絶し方が、節度と結びついて、真に対して感じる事柄に近い。」と書き込んでいるのを見た。https://twitter.com/hirakurakei/status/555339840196050944
この言葉を頭の隅に置きながら、大友写真の凄さを、私もまた私なりに感じていた。
そのことを少し書きたい。
以下は、私の個人的なレポートである。
何かを説明しようとするとき、「それはAに似ている」「Bに似ている」「Cのようでもある」という言葉を積み重ねて対象を浮かび上がらせる方法と、「それはAではない」「Bでもない」「Cのようでもない」という言葉で削っていって対象を彫り出す方法がある。
大友の写真は後者の説明の仕方でしか近づいていけないもののように思われる。
1)セルフポートレート
つぎに続く家族の肖像写真と同じように、椅子に腰掛け、室内に差し込む自然な光のなかでこちらを向いている。手にレリーズを握っていることから、それがセルフポートレートであることがわかる。
昨今ツイッターなどのSNSに氾濫しているような「自撮り」のナルシシズムは感じられない。
また、パフォーマンス表現をする人たちが撮る「表現体としての自己」の主張もない。
絵画表現のテーマ「自画像」に見られる、自己批判、「己を見つめる」という厳しい省察、自己主張の表情も読み取れない。
そこには、なるべく意味を剥奪したような中性的な人間=自己がこちらを向いている。
写真を「撮る私」と、カメラに「撮られる私」が同時に存在しているのである。
よって、自己は、鏡であり、カメラである。
撮影者と被写体はそれぞれ二人称、三人称ではない。一人称である。
カメラだけがまるで神の目のように超越したところにあり、撮影者と被写体の対立を昇華して一枚の似姿(セルフポートレート)をプリントした。
(私は、写真がカメラによって撮られるという事実を知っているので、カメラという撮影機械を思い浮かべてこのように書くことができるが、美術館に展示されているのは、あくまでも「自己が写された写真」もしくは「自己を写した写真」のみである。)
大友はここで、他の人が写されるのと同じように、自分も写されている。
この一枚に、今回の展示における、大友真志の立場が表明されている、と私は思った。大友は全てを写真として引き受けようとしている。
2)家族の肖像写真
セルフポートレートと同じように、椅子に腰掛け、室内に差し込む自然な光のなかでこちらを向いている。手にレリーズはない。肖像写真である。
撮影しているのは、大友真志であり、カメラである。
写真家にとっての家族、もっとも親しい他者たち、ほとんど自分の半身である他者たちもまた、
ただそのままの姿、日常のテンションで、写真のなかからこちらを覗いている。
目が合うと、少しあせるのは、相手は写真なのに、見られる自分が意識されているのかもしれない。
よく、写真の比喩で、「ショット」という言葉がある。
直訳すれば「撃つ」で、写真を撮ることを意味する。
写真は、その比喩でいけば、とても攻撃的な表現になる。
「風景」を切り取って、対象をカシャっと撃つというイメージなのだが、
これほど、大友写真に似合わない言葉もないように思われた。
大友の写真は、まるでシャッターの幕を上げて、暗いカメラの室内に光を招き入れいているかのようだ。
表情や意味は読み取れない。
また、写真に対して「日常を切り取った一瞬」という言葉が使われることがある。
たしかに写真は一瞬の一瞥だろう。しかし、大友の写真は日常の一瞬でありながら、それよりももっと「持続している時間」が感じられる。
写真家自身と、写真家をとりまく環境が、持続している。
それにあえて切断をもちこむのが写真なのだが、文章表記を借りるなら、「。」(句点)や「改行」という仕方でなく、「、」(読点)であるような写真なのである。
決定的な瞬間でなく、日常の持続に「、」を打つことで、それが持続していることそのものを教えてくれる。かつてあった「改行」ややがてくる未来の「。」を内包しながらも、持続するすべてを「、」を打つようにそのままに写真にしようという静かな意志が感じられる。
何か決定的なものを撮って、じぶんの表現に利用し、またそれを一瞬で消費してしまおうという欲望からはかけ離れたところにある写真なのである。
ところで、中世絵画の肖像画は、資産家、貴族、王族らの姿を描いたものが多い。
当時はおそらく、その肖像は人物の偉大さとともに、尊崇の念をもって見られたのだろう。
しかし現在のわれわれがその肖像画を見る時、そこに描かれている人物への興味によってみるのではない。
そこに描かれている人物は、とくに表情もなく、意味も発しず、ただ「肖像」としてある。
大友の「肖像」は、「人物の意味」を超えることのできる「日常」を、映し出そうとしているかのようだ。
そんな日常は、実際にはあり得ないのだが、「カメラで家族の写真を撮るという日常のひとこま」という感じがする。
家族の姿そのままを撮ることで、家族の現実をありのままに見ようとしている。
そこには色んな感情が行き来しているかも知れないのだが、写真からは抑制されている。
色を与えずに、なるべく自然に、家族は家のなかの椅子に腰掛けている。
その姿はとても優美だ。
3)風景
展示されている写真のサイズは、決して大きくない。その小ささに、まず驚いた。
展示会場で大きく引き伸ばされた写真を見せられることに慣れた私の目は、その写真の枠内に吸い寄せられるように近づいていった。考えてみれば「大きければすごい」というのは、なんというまやかしだろう。
「風景写真」である。
写されている南大東島は、沖縄の東方に位置する離島、絶海の孤島で、1900年以降に開拓の鍬が入って人が住み着き、ただちに植民地経営が行われた。
サトウキビのモノカルチャー(単一農業)が画一的に広がるこの島には現在、「グレイスラム」というラム酒会社がある。(大友写真を見れば、とても画一的な風景とは言えなくなるのだが。)
北海道に生まれた大友は、植民地的な風景に敏感な感性をもっている。
植民地とは、支配者と被支配者の関係が風景を改変した土地のことである。
大友はその島の風景を撮るのだが、その視線は、島のなにも説明しない。主張もしない。
風景を風景として緻密に撮っているかのようだ。
自然と人為の格闘のさまが見て取れるが、それが必ずしもテーマとして前景化されず、まるでこの島で風景を撮ろうとすれば、そういうものが向こうから写り込んでしまうものだとでも言いたげに、「風景写真」然としている。
カメラの存在や自分の目を、限りなく無色透明なものにしてゆき、
そこにある光と風景を、ありのままに招き入れて、存在させる。
写真批評の言葉でいえば「ストゥディウムなきプンクトゥムの風景」といったところ。
観るものは、意図や意味が瞬間的に読み取れず、ただその風景に立ち尽くす。
風景に一歩こちらから近づいていかなければならない。
そこにあるがままを見なければならない。
「風景」の意味をカッコにいれるかのように、風景をファインダーにおさめた「風景そのもの」の姿を観る。
何も見えないかも知れないその風景を、眼球の光の反応として、目に反射させる。
その先に広がる意味は、「無」と「無限大」のすべてだ。
こういってよければ、非常に純粋な「風景」を、大友は取り出しているのである。
純粋な風景の結晶を析出するように、大友の写真はある。
風景はそのままですでに歴史、人為、天体、宗教、経済、政治力学が書き込まれている。
たとえば「植民地的風景」だとしても、それを声高に叫ぼうという写真ではない。
「植民地の風景が変化しながらも持続している」ことがたとえ見て取れたとしても、それを全面にだして主張したりはしないのだ。
叫ぶよりも静けさをもって、厳しく、優しく、風景を析出する。
被写体はさまざまな意味と力学の錯綜体である。
ただ純然たる風景に、人は政治力学や経済、人為の力を見抜くことができるだろうか。
大友の写真は、「私は指差す。その風景を見よ」と言っている。
人間の認識も、意味と言葉の連なりからできている。
それを、大友の写真は越えようとしているように、私には思える。
「Aでもなく」「Bでもなく」「Cでもない」という仕方で、意味を削ぎ落としてゆくことで近づいてゆくのが、大友の写真であるようなのだ。
やがて、その「風景そのもの」としての「写真」が、「記録」や「日常批判」に辿り着くことがあるかも知れないのを知りつつ、大友はその直前に留まりつづけようとしている。
写真を意味や意志に従わせようとせず、まず「風景そのもの」として認識せざるを得ない。
この緊張感を、平倉圭は大友写真の「節度」と言おうとしたのではないだろうか(私の勘違いかも知れないが)。
たしかに、これほどの「節度」に留まろうと維持している写真家は、稀有なはずだ。
パッション、という言葉がある。
よく知られている意味は「激情、熱情、愛情」という強い感情の衝迫だが、この言葉にはもう一つ別の側面がある。
それが「受難、受苦、受動」という意味だ。
キリストの受難の苦しみがあり、そこからつよい感情がにじみだしてくる。
大友の写真には、この「パッション」を感じる。
ものすごく強い感情が写真の奥底に燃えて、画面全体に張り詰めているのだが、それはあくまで受動的な、静けさのなかのパッションなのである。
このような禁欲的な抑制は、他の誰にもできないだろう。
「節度」と「パッション」のポートレートと風景。
大友から写しだされる写真は、しかし限りなく優しく美しいのである。
至高の美だ。