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伊藤隆介の作品を見て。宮の森美術館と北海道立近代美術館にて

 (最初におことわりしておきます。敬称を省略しています。このテクストは個人の感想文であり、作品解釈を限定するものでも毀損するものでもない文章としてお読みいただければ幸いです。ブラッシュアップをしていないので、繰り返しが多く、やたら長文です。)

 



書肆吉成では以前、アフンルパル通信11号の表紙と中頁で伊藤隆介の作品を掲載した。

複数の映画のフィルムが切り貼りされて一つのフィルムになった作品だった。すべての映画フィルムがそうであるように一コマ一コマが差異と反復によって連なり突然カットアップされ、サンプリングされ、リミックスされて構成されている。そんな大小いくつものフィルムが隣り合わせに並んでいて、なかには腐食したフィルムもあって、まるでイメージが外科手術を受けて氾濫しているように見える。圧倒的な、という形容詞がふさわしい。

このフィルムが映写されると映像のラッシュになる。一気に複数の時間と空間が同時に炸裂する。「圧倒的なイメージの奔流」だ。その映像を宮の森美術館で見ることができた。

 

2011年にはイメージフォーラム・フェスティバル2011のために西新宿のパークタワーホールへ行き、伊藤が出展していた「コーネリアスのための映写機」をみた。日用品を寄せ集めて作った映写機がある。二つのハンドルを人力で回転させると、一つは自転車のライトの原理で光がつき、もう一つのハンドルでフィルムなどが回転して壁に映画を映し出すことができる体験型インスタレーションだった。電源要らずの映写機。この展示は東日本大震災の翌月〜翌々月のことだったが、今回の宮の森美術館にも同じ作品が展示されていた。私にとっては3年8カ月ぶりの「映画上映」だった。

他、CAI02500m美術館で、それぞれ作品をみている。

 

伊藤隆介展が宮の森美術館で開催されていた。20141025日から201521日までのロングランだった。私は最終日に見に行った。

伊藤作品はフライヤーの言葉を借りると「精巧に作られた模型やジオラマなどをビデオカメラでリアルに撮影、そのライブ映像を拡大投影し、目の前の実物(模型・ジオラマ)との関係を考える」作品である。

 

ところで、この展覧会の会期中、社会ではいくつかの映像をめぐる事件があった。

1月7日、パリで襲撃事件が起きた。ムハンマドの諷刺画を掲載した新聞を発行したシャルリー・エブドでの惨劇で、12人が死亡した。その後印刷会社に人質をとってたてこもった襲撃犯は射殺された。同時にパリ東部にあるユダヤ系食料品店でも人質をとるたてこもりがあった。この事件をきっかけに、風刺かヘイトか、表現の自由・寛容か節度をなくした冒涜か、法か宗教か、空爆、難民、人種、宗教、格差、自主規制、報復の衝突などなど、たくさんの問題が噴出した。近代国家がかかえた矛盾が表面化したのである。このとき、大規模な追悼集会(デモ)が起こった。デモの民衆の先頭で列国の首相が手をつなぎ合って行進する写真が公表されたのだが、じつはこの写真は現場とは違う場所でセット撮影したやらせ映像だったことがネット上で暴かれた。サルコジがコラージュされたイメージも多く出回ったのも印象的だった。「Je suis Charlie」、「tout est pardonné」という言葉が掲げられた。この事件はドイツ、デンマークへと飛び火した。

 

シャルリー・エブドのショックが覚めやらぬ120日、過激派組織「イスラム国」が湯川遥菜と後藤健二の二名を人質にとって多額の保釈金を請求する動画が投稿された。ユーチューブが舞台だ。まるで戦争と脅しの宣伝広告だった。画像が合成ではないか、という疑問がつきまといながらも国家による交渉が続いたが、結局二人の人質は殺害され、そのライブ映像が配信されるにいたった。日本時間21日午前53分だった。

 

21日は伊藤隆介展の最終日だった。この日、私は宮の森美術館に展示を見に行った。伊藤隆介展開催中に起きたこの歴史的事件が頭を離れなかった。「映像の暴力」と「映像の信憑性」が問われていた。これにたいして、伊藤作品は一つの示唆を与えているように私には思われてならなかった。

 

宮の森美術館に入ると、大きな壁いっぱいに映像が投影されていた。そこでまず、私は「美術館」という、映画館でもパソコンモニターでもショーでもない場所で映像を見るということに、あらためて違和感を感じた。

テレビ中毒者である私たちは、メディアによって拘束されている。メディアに首根っこを掴まれた人質だ。そのため、しばしば現実の出来事や光景を「映画みたいだ」とか「映画のセットみたいだ」とか言う。これは現実と映像を履き違えている。私たちは、映画が現実を真似ているのではなく、現実が映画のように感じられるという転倒した感性をすでに持っているのだ。映画館で映像がスクリーンに映されていれば「映画」であり、テレビ画面やモニターで配信されるものなら「リアル」と受け取る。私たちは映像に強い心的ショックを受けて実際に病んでしまうことだってあるし、逆に現実の光景が嘘のようにリアリティを感じないこともある。

そのくらい、私たちの日常は映像環境に浸されているのかも知れない。

 

美術館の部屋で上映されている大きな映像に気をとられながら近づいてゆくと、映像の手前にジオラマや模型などの造形物が展示されているのに気がつく。モーターとベルトなどが回って、造形物が動いている。中をのぞくと、造形物のなかに小型のカメラがあって動いていて、そのカメラの映像が壁に映し出されていることに気がついた。

壁に上映されていた映像は、伊藤の作ったミニュチュアの模型やジオラマの内部の映像なのだ。

ところで、テレビや映画のなかの映像はセットされ編集された「作られた現実」(ヴァーチャル・リアリティ)である。だから、映像体験はメディアによって「作られた体験」なのだが、体験それ自体は現実の身に起こる。ヴァーチャルな映像が現実の経験に侵食し同化し呑みこんでいる。ヴァーチャルが現実になるのだ。よって、「現実的な仮想性」という転倒がじつはいま日常的に氾濫している。人の体験や世界観のなかで現実か虚構かの見分けがつかないのだ。

大きな画面で見ると、その映像しか目に入らないので、映像にのめり込んでいって次第に画面の外部が消えてゆき、映像のなかに完全に入りこんでしまうことがある。

美術館で上映されていた作品も、それくらいの大きさはあった。大きくて、迫力があるのだ。

しかし、その映像はすでに手前にミニチュアと小型カメラによる「撮影現場」があるので、そっちも気になってしまい、映像に没入することができない。

 

かつて映像の主人はテレビ局、映画会社、ゲームプログラマーだった。現代は、誰もがインターネットを通じて映像を世界に公開できる。映像は世界を刺激する武器になっている(「万引き映像」「食品への異物混入映像」をユーチューブで配信していた少年が逮捕された)。たとえ作られたお騒がせ映像であっても、世界を刺激する力を持つのだ。

そのとき、映像が作られた「撮影現場」の「種明かし」をされるのが、映像にとって一番つらい「急所」になる。メタレベルに異化することで、映像が客体化されて認識されてしまえば、メディアの効力は減少するだろう。どんなにすごい映像でも、メイキングが暴露されて脱神話化された瞬間にたちまちキッチュなものとなるだろう。

伊藤作品が映像のからくりを同時に展示しているのは、映像体験のなんたるかを白日のもとにさらそうという意図が感じられた。

 

ところで、映像の作られる文法や構造を考えることは、映像に覆われたこの世界自体の文法や構造を考えることにもなるのではないだろうか。

たとえば、今更こんな話を持ち出すのは恐縮だが、インターネットそのものを考えてみよう。インターネットはもともと軍事設備として構想され、発達した通信手段である。たとえ通信経路の一か所が敵に攻撃されても、情報がしぶとく生き残って通信ができるように開発された。そのため、二つの大きなアイディアに依拠している。「分散型」と「情報のパケット化」だ。つまり「情報の中心地が無い」「一元的な情報集積地と経路がない」「情報が小出しに送られる」ということを意味する。これは現在「イスラム国」と呼ばれる過激派組織の映像テロリズムのストラテジー(戦略)に類似してはいないか。もしそうだとすれば、インターネットの仕組みを考えることは、現代のテロの在り方を考えることになるだろう。そこから現代社会の在り方も見えてくるのではないかと、私は考えてしまう。(同様に、映像を批判すれば、この映像的世界も再考できる、という信念を伊藤隆介作品は私たちにもたらさないか。)

 

現代社会は、グーテンベルクの印刷革命とIT革命を超えた、というか、印刷とITがすでに「環境」と化した新しい段階にあるように思える。いま私たちはインターネットの世界像と現実の世界像が互いに侵食し同化し呑みこみあった世界を経験しているのだ。

ともあれ、テレビの衛星放送で世界同時中継を結んだアート作品をうんだナム・ジュン・パイクから32年が過ぎた現在の我々の前に伊藤隆介がいるのは確かである。

 

伊藤のつくるセットとカメラの機械は、物の世界で自動的で自律的な永久運動を続ける。人間の知らないところで、勝手に物や機械が自動的に動き続けているのだ。私にはそれは少し怖いことに感じた。

永遠に同じイメージを反復し、コピーする(伊藤作品のなかでコピー機は揺れながら光り続けている。現実のコピーを作り続けている。塩吹き臼の昔話のように永遠に動き続ける。たぶん今も)。そこに「事後性」という概念はない。

ジオラマ内のカメラの往復運動は、私たちの現実をシミュレーションし、私たちの映像体験を宙づりの状態にする。サスペンスだ。出口のないサスペンス。そんな恐怖感をおぼえた。

 

現実のオリジナルであるはずのカメラが撮影する世界は、模型やジオラマといった造形物だ。それ自体コピーのようなものだ。コピー(造形物)からコピー(映像)が永遠に生み出されている。それは物と物の寄せ集めによって作られる「物の世界」なのだが、光と動きの視覚的効果が与えられることによって物が亡霊化したかのように、ある世界観や、物語(映画の途中のシーンのような)が立ち上がってくる。そんなふうに感じるのも怖かった。「物」から意味が生れる現場。

その雰囲気から作品のモチーフらしき寓意を得ることは可能だ。しかしここではあえて言説からは離れよう。映像を言葉で煽り、心を追い詰めて民衆の感情をひとつにまとめようとする手合いと同じ轍は踏まないように。たとえ言葉を置くときも、熱い感情的な言葉でなく、静かな問いかけの言葉にしよう。

 

いまはまずモチーフよりも、伊藤作品のメカニズムのほうを語りたい。

テレビなど社会的な映像から隠されてしまっている、不可視の現実を想像力と造形力によって作り上げ、そのミニチュアをわざと解像度を落としたクールメディアに仕上げて上映することで「現実の亡霊」を映し出し、視る者の想像力をかきたたせ、「現実/映像」社会への主体的な参加を促す。映像に感情移入してしまうことはない。からくりがばれているし、メロドラマ的要素もほぼ無い(伊藤作品のなかで、その映像が作られたセットであること自体が撮影機器の造形によってネタばれしている。ブレヒト的異化作用だ)。この参加は、現代の映像と人間の関わりかたについての、ある認識を生みだそうとするのだ。

映像の暴力の戦争を生きる現代人にとって、映像を批判することは、暴力に対する強烈な抵抗になりえる。映像批判とセットで個別のモチーフを思考した方がいい。個別の社会問題は半分以上言葉の問題なのだが、それが視覚によって生み出され、規定されていることにまでは想像力が届かずに気づかないままでいることが多いのだから。

 

プロパガンダとの差異も考えておきたい。レニ・リーフェンシュタールの時代と何が違うのか。まず、現代の映像が、権力者だけの道具ではなくなったという点は大きい。現代は、映像を取り囲むようにマスメディアが言論空間を作り上げて、解釈のオブラートで包みこみ、視聴者に飲ませる。しかし新たな映像によって反撃を受けるので、言論空間の充分な形成が追いつかない。結局権力はなし崩し的に、無理やりの言論を組み立てて世論を扇動するしかない。もし仮にプロパガンダを作っても、底が割れている。その映像は「真」か「偽」か。たとえ「真」に近いとして、どのような演出が施されているのかが、世界の別の視点から見えてしまうことがあるのだから。

 

ところで、展覧会では、プロジェクターで壁に映像が投影されていた。この場合、二つの「イタズラ」が可能だ。一つはカメラの前、もう一つは投影された映像の前。カメラの前に指を差しいれると、巨大化した指先が映像のなかに侵入する。まるで自分が進撃の巨人になったような気分になる。もう一つは壁の前に立って映像を浴びることで、映像に自分の影が入りこむ。この二つは、もし可能ならば、実際に体験してもらいたい。かなり面白い。遊べる。楽しいばかりではない。その時の映像こそ、実存と映像が混ざり合った「リアリスティック・ヴァーチャリティ」のなかに自分が存在することを鮮烈な体験として知るのだろうから。

 

現実の社会の問題には、一つの正しい解答はない。私たちにできることはせいぜい、「何が問題なのか」を把握し、短絡的な解答を求めずに考え続けることくらいなのだ。それはたしかに「問題の先延ばし」だが、積極的に言えば、永遠に「核心」に辿りつかない問題の「宙吊り」に耐えることのエクササイズでもある。「核心」にたどり着くための手続きが増えれば増えるほど、じつは「核心」への到達はどんどん延期されてゆく。いまや、「核心」に辿りつかないこと、核心に近付いているようで実は周囲をぐるぐると回り続けるだけのカフカの「城」のような不条理的状況に留まっているほうが、短絡的な解答よりずっといいのだ、皮肉なことに。まずは現実を直視し、映像を直視し、この永遠の往復運動に耐えよう。サスペンス状態に置かれていてもヒステリックにならず、笑ってとらえてガス抜きも大事じゃないか。伊藤隆介の言葉を引こう。

「問題に対する回答を無限に延期して繁栄を手にした、戦後日本人の精神のミニュチュアであり、背負うこととなった核の宿痾を笑う装置である」。

 

笑う装置とは、つまり諷刺なのだ。諷刺映像は笑いのラディカリズムでもって現実の暴力の化けの皮を剝す。笑いのなかで人は世界の真の姿に出会う。

伊藤隆介の映像を体験したら、きっとみんなびっくりしますぜ。

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