すべて二重の風景をなみだにゆすれ 〜たとえばカメラをもって風景を撮る、ただそれだけで

−−おれはひとりの修羅なのだ
  (風景はなみだにゆすれ)

−−すべて二重の風景を
  喪神の森の梢から
  ひらめいてとびたつからす
               宮澤賢治「春と修羅」



金子遊さんの映画論「批評の奪還 松田政男論」が映画芸術430号に掲載されています。
これは第一回映画芸術評論賞佳作に選ばれた評論です。
http://d.hatena.ne.jp/johnfante/20091229
一読、とっさに思い出すのは金子遊監督作品の風景と映画の内省のトラヴェローグ「アマミリール」でした。金子監督は映画の実作と批評を両輪にして、この2010年代にどこへむかうのでしょう。

「三人の批評家たち」「風景論」「台湾、沖縄、第三世界」「運動の映画」
と四つの小見出しがついて論が展開してゆきます。
そのうち「三人の批評家たち」は上のリンクページに書かれているような内容です。

批評が活発だった70年代の映画評論の状況にいったん立ち戻り、そこから再出発を切ろうとするこの論文が目指すのは、「社会批判としての映画と批評」と言えると思います。70年代に松田政男が苛烈な言葉で示そうとした、映画のもう一つの顔です。
映画史を振り返ると、ジガ・ヴェルトフやエイゼンシュタインの「モンタージュ」(ロシア)、シネマ・ノーヴォ(ブラジル)、「ジガ・ヴェルトフ集団」(フランス)、ネオ・レアリズモ(イタリア)などなど、世界中で映画運動が社会を変革する力を宿していました。映画にはもともと社会を映し批判する機能が備わっているのです。日本ではATGや独立プロやドキュメンタリー映画の興隆がありましたが、フィルムを見る機会もほとんど無く、内実がどんなものなのか、勉強不足の私にはわからないままです(だれか教えて!)。

「風景論」
さて、金子さんは「風景論」で、永山則夫の足跡をおった松田政男の映画『略称・連続射殺魔』をとりあげて論じています。
論旨を追ってみます。まずは孫引きから

「風景こそが、まずもって私たちに敵対してくる<権力>そのものとして意識された(…)国家権力ならば、風景をば大胆に切断して、たとえば東名高速道路をぶち抜いてしまう。私たちが、快適なドライブを楽しんだ時、まさにその瞬間に、風景は私たちを呪縛し、<権力>は私たちをからめとってしまうのだ」(「密室・風景・権力」『薔薇と無名者』松田政男)

風景は、一方では日本列島が改造されて均質化されてしまっていて、東京のコピーが延々と続く、いまでいうグローバル化された風景になっています。そういった風土においては<故郷>は<東京>のイミテーションにすぎず、日本のどこまでもいっても東京が唯一の故郷としての始原性を主張するといいます。
恐ろしいことですが、この部分は私自身を振り返っても妙に実感納得させられます。
「何処まで行っても、何処にでもある風景のみに突き当たらざるを得ず、したがって永山則夫は、ついにこの風景を切り裂くために弾丸を発射せざるをえなくなった」のだと松田政男は結論するのだそうです。

風景の均質化された側面の一方で、原将人を引きながら、固有の風景を見るときの「まなざし」のあり方にも注意を向けます。風景を見る人間が、かえって風景によって見つめ返されているように感じて風景のメッセージを受け取ろうとする、そんな「まなざし」です(たとえば、すごく痛ましい映像を見たときに、痛ましくさせているのは見ているあなたなんだよ、と映像にいわれてるような感じ、でしょうか……)。
風景にむけられる「まなざし」そのものを捉え返すことで、権力の所在をさぐろうとする金子さんは、「風景映画」がもつ批判力を強調するのです。カメラによって撮影された「風景映像」は、じっさい目に見える以上のものを可視化する「社会表象」になるのだといいます。

「台湾、沖縄、第三世界」
ここでは松田政男の出自から、いかに彼がデラシネで亡命者であるかが紹介されます。
台湾において沖縄女性と関西人のあいだでの過ちから産み落とされたので、父の名を知らない庶子となりました。植民地時代の台湾では、沖縄人ではなく日本人として育てらるため、沖縄に親しみも無いのですが、かといって台湾では沖縄人だと言っていじめられるので、いっそう日本人の少年としての仮面を身につけていったのだそうです。
台湾、沖縄、日本人のどこにも100%の帰属意識が持てず、かといって一切を全く突き放すこともできない血が流れるのです。そんなところから自称「失業革命家」としての「極左」の立場を表明していきます。
そんな彼がたとえば植民地状況での搾取をドキュメントした映画を観るとき、植民地を搾取し窮地に追いやっているのは「日本人」たる自分自身なのだということをも直視します。彼の出自からくる寄る辺無さは、被植民と植民のあいだ、被搾取と搾取のあいだで葛藤し、「第三世界」なる「真の主人公−−地上の呪われたる者たち!−−が未だそこを奪還することを得ぬ約束の地」という場所を創出します。私はここでいう「第三世界」とは「亡命者による約束の地」と言いかえられると思います。実体のある場所ではなく、たとえばチカーノにおける「アストラン」のような場所です(金子さん、どうですか? 的はずれ?)。

「運動の映画」
ここでは埴谷雄高による松田政男の「国際対応性」「直接関与性」「尖端性」のみっつの特徴を紹介しつつ、来るべき映画と批評と社会のたどる方向をさししめそうとしています。
そのなかで特に「直接関与性」を強調し、「松田政男が、映画が生じてくる現場に積極的に関わり、批評家として映画の伴走者として走り続けてきた」として、60年代の独立プロやATGが隆盛したのを受け、70年代には「観客を、まさに一つの運動として己の映画作品を見、討論し合うところの自覚的な観客として組織していく」ことを提起したことを紹介します。より積極的に映画が作られて、見られて、語られること(創造―批評―普及)のサイクルを活性化させ、そのなかで社会を変革しようとしたのです。映画とは、そのような運動を組織できるメディアなのです。この運動の創造と普及、作家と観客のあいだをつないで社会をかけめぐる言語こそがいま求められる「批評」なのだと、金子さんはいいます。
現在蔓延しているすぐに消費されて忘れられる商業主義的な映画産業と、批評の顔をしたコマーシャルとしてのコピーから一度亡命をして、修羅となって社会を批判する言語としての映画と映画評論を、いまこそ奪還しようではないかと、金子さんは言っているようです。映画にはそれができるし、私たちはそのための言語を絶えず鍛え上げることができるのです。たとえば一人ひとりがカメラをもって風景を切り取る、ただそれだけのことからでも、批評は始められることを、この論文は示していると思いました。



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en-taxi を読んで思い出す、いくつかのこと。


「en-taxi」表紙画は大竹伸朗。次号からリニューアルとのこと。

山形ドキュメンタリー映画祭の特集があります。
そのなかでは吉増剛造先生のテキストも読むことができます。


「何かがあった」、何があったのか定かではないのですが、
山形でドキュメンタリー映画に火のつくような何かがあった、マグマの滾りに似た火急のエネルギーが感じられました。
港千尋さん、武満徹さん、レヴィ=ストロース、ヴィクトル・エリセ、佐藤真……


坪内祐三さんの「文藝綺譚」
(著作権がありましょうから、文の下の方を切ってあります。またあくまで「引用」であり、主文は下に記したものであります。念の為)

坪内さんには山口先生のお傍でこれまで何度かお会いしたことがあります。
私が古本屋の仕事に憧れを抱いたのも、坪内さんのお蔭でした。
坪内さんはエピソードの名手で、終りにオチがあるとても楽しい話をされます。
福島県昭和村で山口昌男ゼミが、そのころ早稲田で教えてらした高橋世織ゼミの学生さんたちと合同で行われたときにも坪内さんが来て、昭和村に山口先生の蔵書が運ばれたときの苦労話や、その後のイベントの顛末など、お聞かせ下さったときは大笑いでした。
札幌大学で毎週開かれていた「北方文化フォーラム」に月の輪書林の高橋徹さんと坪内さんが来たときも、緊張にこわばって何もしゃべらない月の輪さんにかわって坪内さんがほとんど月の輪さんのエピソードを語り尽くし、月の輪さんはそれにただうんうん頷くだけという、異例の面白さがありました。(打上げでお酒が入ったとたんに月の輪さんは饒舌になったのですが。。笑)
その翌日に札幌エスタで開催されていた古本市にも坪内さん、月の輪さん、山口先生といっしょに行き、その時の昼食ですっかり古本の面白さに魅せられた私が「将来ぼくも古本屋になりたいです!」と言ったところ坪さんと月の輪さんに「悪いこと言わないからこんな儲からない商売はやめといた方がいい!」と止められたのでした(笑)

坪内さんがレヴィ=ストロースから山口昌男先生のことをお書きになっていました。『本の神話学』や『知の遠近法』、『二十世紀の知的冒険』は私も学生時代に熱読した知的青春の書です。


坪内さんは東京都写真美術館の北島敬三展でのトークにふれつつ、長いお付き合いのなかから最新の作品が生まれてくるまでのエピソードをお書きになっています。ねばり強い仕事に坪内さんも驚かれているご様子です。
最近の作品とは「PORTRAITS」と「PLACES」のシリーズ。
このうち北島敬三写真展「PLACES」が1月21日から2月28日まで、新宿のphotographers' galleryで展示されています。(大友真志さんも一年かけてのロング個展を開催中とか?)

最後、坪内さんの文章は元・晶文社だった編集者の中川六平さんの近刊著書『ほびっと 戦争をとめた喫茶店』に話が及んでしめくくりとなります。
中川六平さんには、支笏湖の丸駒温泉でお会いしたことがあります。
ここで温泉楽会という半分勉強、半分お楽しみの会があり、山口昌男先生についていきました。
温泉の一室で、中川さんを介して漫画家の畑中純さんと山口先生がお話されていました。
それがのちに『踊る大地球―フィールドワーク・スケッチ』になって出版されたのでした。
昨年、晶文社は文芸編集部門を閉鎖したそうで、晶文社カルチャーに同時代ではない植草甚一ファンならずとも淋しいばかりでございます。


坪内祐三さんの『文藝綺譚』に寄り添うように、色々なことを思い出されました。
そしてあらためて、いまの自分が古本屋をやっているのは山口先生、坪内さん、月の輪さん、石神井書林の内堀弘さん、彷書月刊(2010年の300号で休刊が報じられています)の田村七痴庵さんらの古本ネットワークの面白さに触れたかったのだということ、「アフンルパル通信」の発行を通じて、自分もそれを別の形で少しでも継承できたらいいなと思っていることを再確認できました。

「en-taxi」に感謝!
最初の写真をもう一回!



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いい書評(悲しみを聴く石)とインタビュー(石田尚志×金子遊)



北海道新聞にアティーク・ラヒーミー『悲しみを聴く石』(関口涼子訳・白水社2009.10)の書評がでていました。
円城塔さんが書いているのですが、いい書評だなぁとため息。
私もこんな文章を書けるようになりたいなと思いました。
恥ずかしながら私が前に書いた日記はこちらです。


それと、映画監督の金子遊さんが、いま恵比寿の東京都写真美術館で行われている企画展「移動するイメージ。石田尚志とアブストラクト・アニメーションの源流」に関して、石田尚志さんにインタビューしました。

http://eigageijutsu.com/article/138450454.html#more
「アフンルパル通信」で書いていたエッセイ(「東京論」)についても触れています。
ロングインタビューですね。すごい充実の内容。
石田さんのアブストラクトな線が、「東京論」を介して
都市論として産業の機能的生成を生み出す「ライン」のパイプにも変身し増殖していくようで、大変興味深く感じました。



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悲しみを聴く石 サンゲ・サブール

ペルシアの神話に「サンゲ・サブール」(忍耐の石)という名の石があるそうです。
この石に向って、人に言えない不幸や苦しみを打ち明けると、石はそれをじっと聞き、飲み込み、ある日、粉々に打ち砕ける。その瞬間、人は苦しみから解放される、という言い伝えがあるそうです。


『悲しみを聴く石』
アティーク・ラヒーミー著 関口涼子訳
白水社2009.10
アティーク・ラヒーミーはアフガン亡命作家。今作はフランス語で書かれ、ゴンクール賞を受賞した。

戦争で植物人間となって帰ってきた夫。
その夫に、妻は自分の内に秘めていた悲しみを、はじめて語る。
夫はただ規則的な呼吸を繰り返すだけで何の反応も示さない。
沈黙し続ける夫に、妻の告白。
舞台は現在のアフガニスタンらしき地。
窓の外は内戦下、カーテンの内側は石のような夫、イスラムの世界の一室。
虚ろに語られる、衝撃的な、しかし静かで凄惨な、生きていることの悲しみ。

外では、
時として銃声。
時として祈り。
時として、静寂
(p119)

このような空間で語られる悲しみの記憶こそが、何よりの惨劇。戦争状況。
戦慄して読みました。

日本語世界では「石のような沈黙」という表現があります。
悲しみやつらい記憶を抱え込んで話さないのが日本語の「石」。
この物語では、悲しみやつらい記憶を語られ続けるのが「石」。

「サンゲ・サブール」『悲しみを聴く石』を黙して読んだ夜。


↑12月13日の読売新聞の読書欄に綿矢りさの書評があり、買っておいて読んでなかったので、ついにページを開いてみたのですが、ボクは書評に書かれてあったこととはずいぶん違う読み方をしてしまいました。作家さんの読みは違うものだなぁすごいなぁと感心しました。

↓関口涼子さんによるその他の日本語翻訳本。

関口さんの「フランス語」への翻訳本には吉増剛造さんの詩集ややまだないとの作品もあります。amazon.fr.で「Ryoko Sekiguchi」とご検索を。
続きを読む >>

歸去來兮(かへりなん いざ)

高橋あいサンから『歸去來兮』展の図録を購入しました。


これは愛媛県の久万美術館で秋に開催されていた写真展の図録です。
林浩平さんが企画をし、三人の写真家さんがそれぞの久万町を写した展覧会。
写真家は萱原里砂さん、笹岡啓子さん、高橋あいさん。
三人ともまだ若手の女性写真家さん。
一つの町を撮るのに、写真がこれほど三者三様であるのは、
写真家の個性によるものか、あるいは多様を許す町の懐の深さか。

愛媛の出版文化史に残るようなものを作ろう」の気概で作られた羽良多平吉・書容設計のこの本には、
林浩平さん、倉石信乃さん、楠本亜紀さん、神内有理(久万美術館学芸員)が解説を寄せ、作家三人の久万撮影録のテクストを収載し、
それぞれの写真図版ページを独立の本として製本し、キレイな色のタウト函にかがりつける、稀有な造本となっています。

 

 
ね、造本すごいですよね。
笹岡さんと高橋さんには直接お会いしたことがあります。


笹岡さんは今月末に写真集『PARK CITY』(インスクリプト)を出版するようです。
故郷の広島をテーマにしています。
同名の写真集がフォトグラファーズギャラリーから二種類刊行されていて、それは書肆吉成でも販売しておりますので、ぜひご覧いただけたら幸いです。


高橋さんは神出鬼没です。でもってスゴイ人。尊敬してます。北海道から沖縄まで、飛び込んでいって、映画を学んで、人に接して、移動して移住して。
そうしながら、彼女にとっての「大事なこと」をやり続けているアンガージュマンの人です。これからの活動もがんばって欲しいです。お体お大事に。

吉増剛造『静かなアメリカ』書肆山田刊



永い
冬眠を
していて、
ふっと、
薄靄の
香りに
気がつく
ように
して、
眼を
さました、
……そんな
書物。
「詩の地面」
の声を
聞く、
永い
旅の記録。
 (帯より)


ホットの缶コーヒーを買おうと外にでると、雪が降っていました。
どおりで寒いわけです。
もう夜になった道に白い点がいくつもいくつも踊っています。
気温が低いためか、サラ雪で、風に吹かれて空気の筆が、見えない書を綾なしています。
雪が降ると、歴史が消えるような気になります。
白い白い雪がふりしきり、視界をさえぎり遠近もかき乱し、輪郭もわからないほどの白さに包まれて、、時代の流行やギラギラした欲望が沈静し、毎年同じ、歳もとらず、「冬の生活」のなかに入っていくのです。

静かなアメリカ、吉増剛造さんの詩の言葉を、雪の町で読めること、これは幸せな映像です。
赤いヴェールをはぐと、真っ白い地の本が現れます。
昨夜はそれで、もう本当に久方ぶりに、吉増さんにお手紙をしました。
ずっと書いていなくって、心苦しい思いをしていて、本を手にしたとき、書こう、書かなきゃ、と。
カリビアンブルーのインクの万年筆とゴーギャンの便箋、南の異国調です。

こごえて、指先が冷たくて、息は白くて、耳や鼻が痛くなって、心細くて、
そういう時に詩の言葉は胸に宿り火を点します。
冬眠の夢のつづきにいる私に、白い言葉の雪が降り、心に冷たい火を点します。
そんな読書をしながらの、冬を迎えております。


本の紹介にも、感想にも、なんにもなっていない文を書いてしまいました。

オフェーリアと本。

松尾真由美「装飾期、箱の中のひろやかな物語を」


松尾真由美さん(第52回H氏賞受賞詩人。東京都在住。たしか音更町のご出身と記憶しておりますが、音更といえば伊福部昭の印象が強すぎてこの記憶には自信がありません。。)から、展覧会の案内とご本を頂戴いたしました。それがこの、

「装飾期、箱の中のひろやかな物語を」
300篇の短詩作品のうちから78篇をあつめる。
個々のタイトルはa〜zまであり、
BOXとの共作のため、
小見出しにBOXの写真が入っている。
BOXaの詩集からzの詩集まで26枚。

     著者 松尾真由美
     写真 藤倉翼
     発行 2009年11月20日
     定価 1500円

  個展用パンフレットを兼ねているため
     市販されていません。

個展は11月26日に終了しております。
市原世津子さん(英在住の作家)の「箱」作品と、
松尾真由美さんの詩のコラボ展だった模様です。
松尾さんはこの本の中で、アルファベット毎に3つ単語を取り出して詩作しています。
「A」では「alone」「altitude」「associate」
「B」では「babble」「bloody」「bold」
といった具合で、それぞれの単語をタイトルに20行程の詩が形作られています。
この怜悧な詩人にとって比較的短いワンシーン毎の詩篇、その研ぎ澄まされた言葉はとてもきれいで、さわれば溶けてしまう雪片のようです。
ブログでは3つの単語どころではない量の詩が掲載されていて、この本に収録されたのはほんの一部だと知らされます。


松尾真由美さんの個人誌「ぷあぞん」は岡部昌生さんの装画とともにいつも戦慄しながら拝見しております。緊密な言葉の表面からその奥にある詩の深部を感じるときの危険なほどの濃い世界にたじろぎたじろぎしております。
読んでしまってよいものか、罪悪感と恐怖とを感じながらも読まずにいられない、僕にとってはそんな過激でこわい詩です。


札幌在住の写真家・森美千代さんとのコラボレーション詩を現在製作中のご様子です。
2年前のちょうどこの季節だったと記憶しますが、森さんと松尾さんのお二人の作品の展示は、かつても東京のギャラリーで催されていたと思います。
森さんの写真もとてもステキなので、お二人のコラボレーションも形になればいいなぁと期待しております。
http://profile.ameba.jp/matsuo-mayumi/
(↑このページ内の「スライドショー」をぜひご覧ください。森さんとのコラボです)

『本は読めないもの』を読んだ夜。

今日はこの本! と思って手にしたところが運の尽き、ここで会ったが百年目、ついつい引き込まれ、読み耽ってしまいました。あわれ極私的な本の感想文を。。

管啓次郎著『本は読めないものだから心配するな』(左右社2009.10)


歩行と読書をめぐるこの書物のページをめくるたび、
路地から路地へと道が折れ、そのつど新しい風景に入りこんで行くようなわくわく感に見舞われます。
短い文章が連なり、一篇一篇が厳密に区切られていないため、
ゆるやかに次の文へ次の文へと飛び石するような読書。
それでも読み進めていくうちに僕の悪い癖で、文と文との波間にちらりとのぞく書物と世界の「全体像」があるんじゃないかと期待し探してしまいます。
しかしそんなやましい読書欲からは軽やかに身を翻し、本書は「拾い読み」を励行するのですから、徹底して「部分」へ「断片」へと解体されるのです。全体なんて無いから心配するな、と言われているような気になります。
私にとって読書欲とは所有欲や征服欲に近いです。知識を得たい読破をしたい、という気持ちは私の場合、知り尽くしたい、もっと本を手に入れたい、もっと本を所有したいという気持ちに向いてしまいます。
しかしこの本は、そんな欲望の引力に囚われない広い広いところに私を連れ出してくれました。
自分の独り占めできる場所はないし本も無い。そう思うとかえって、ここにいて本を持っていていいんだ、というすっきりした肯定的な気持ちが生まれます。
北海道の戦後開拓民の子としてこの地に生きていることの後ろめたさも、なぜだか少し晴れるようです。

たとえばp196からはじまるページに、露口啓二氏の写真へ寄せられたエセーが収録されているのに出会うこともあります。
このエセーの初出は「アフンルパルex.1」、書肆吉成が昨年発行した「露口啓二」特集号です。
本書のなかでは「ある岬の記憶について」と「アコマ、空の村」の間に位置します。
読書の小径を渡り繋ぎ歩いていて、不意に出会うとよく知ったはずのテクストまで、私の知らない表情をしてこちらにほほえみかけてくるようです。
また新しく出会えて、幸せです。
こんなテクストとの出会いを、ありがとうございます。




古本屋もがっつかずに、本のなかで生きてゆこうと思います。本の中に本があるような気持ちで。お金を稼ぐのは大変ですが。。

葉山から、群島詩人の叢書、来たる。



三浦半島葉山に、本のサロンをつくり、
出版やイベントやゆったりした時間を生み出している
サウダージ・ブックスから、
新しい本が生まれました。

叢書 群島詩人の十字路
アルフレッド・アルテアーガ+高良勉詩選 今福龍太編
著者 アルフレッド・アルテアーガ、高良勉
編者 今福龍太
造本:B六判変型/ペーパーバック・オンデマンド印刷/本文106頁
価格 1200円(税込)
発行・発売 サウダージ・ブックス
装幀・組版 気流舎図案室

ご注文はこちらをご参照下さい→
初版限定250部には付録つき(A・アルテアーガと高良勉の英日対照訳の詩各一篇)。



共同代表の浅野卓夫氏は今月号の「すばる」に書評を書き、サウダージブックスでの浜田優さん×勝峰富雄さんのトークイベントを開催するほか、古川日出夫氏に関しての写真展でかくたみほ氏・内沼晋太郎氏と、また「アーキペラゴ」に関して石川直樹氏とのトークイベントに参加するなどのご多忙ぶり。

浅野卓夫さんが見せていこうとする世界には、とても大切な「教え」が引き継がれています。
はじめ「聞き書き」という方法で行っていた「智慧の継承」を、自身が出版やイベント開催など積極的なメディアとなることで、より多様に展開しているのだと思っています。
浅野氏の「聞き」には、声なき声やうめき声をも聞こうとする意思があり、
「書き」には出版やトークイベントやサロンという場をもつようなメディアも含まれる。
わたしたちに真に大切な智慧や教えをもたらそうと、「聞き書き」という方法で媒介する浅野卓夫さんに畏敬の念を抱いています。

露口啓二写真集

ことし八戸市美術館で開催された展覧会の図録=写真集「露口啓二写真集/Blinks of Blots and Blanks/ICANOF2009」を入荷しました。
書肆吉成にて店頭販売しております。


A4変型・全カラー・320ページ
オビつき  定価(税込み)2500円
ICANOF2009

「地名」「ミズノチズ」「ON−沙流川」「オホーツク・シモキタ」のシリーズ作品に加えトークイベントと豊島重之氏との往復書簡を収録し、297ページ・作品300点におよぶ露口啓二写真世界が一挙集成されています。




ページをひらくとそこからふっと水の気配が漂って、潤沢な光を見せる露口氏の写真の風景にいつまでも浸っていられるようです。
風景を覆ういくつもの「意味のヴェール」にそっと触れながら、写真と風景のあいだを問う露口氏の真摯な姿も映し出されています。
「オホーツク・シモキタ」は、「地名」シリーズで見せた二枚一組の風景の差異の方法論を、「東北」(東京から見ての方角「東北」であるわけですが)と「北海道」の二つの岬で試みた作品のように思います。この「他の岬」(デリダ)の写真が並置されるところに、露口氏のクリティカルで新しい写真の相貌があらわれているのでしょう。

またここからは余談ですが、わたしはいつの日か露口氏の故郷・徳島の風景と北海道とのダブルイメージを見てみたいと、こっそり思っています。